院長ブログ

2021.04.20

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(2)

 ずいぶん前、赤ちゃんを連れた若いお母さんを診察した時、
そのお母さんが「来月には、旦那さんの実家に入るんです」と言ったので
「それは良かった。赤ちゃんは見る人が多いほどいいんだよ」と答えたら、
若いお母さんの目からみるみる涙があふれてきた。
”悪いこと言ったかしら”とオロオロしていたら、
落ち着いてきた彼女が「誰に言っても”大変だね”ばっかりで。。。
こんなふうに前向きに言ってもらえたの初めてだったんです」
と泣いた理由を話してくれた。前向きに答えたというよりは、
現代のような、親が子供の養育のほとんどを担う時代のほうが歴史的には浅い。
裸族的社会と現代の子育ての一番の違いは、”両親以外の人々の関与”にある。
そこで、今回は裸族の子育てについてブログで紹介したい。

裸族の子供の出生は過酷だ。
その子に奇形がなく、上の子とは3年くらい離れていれば
部族の一員として育てられることになる。
食べ物が安定して得られない狩猟採集の場合、
乳児の唯一の栄養は母乳になる。
母親はまだ歩けない子を、授乳しながら抱いて
次の野営地まで移動しなければならないので、
授乳が終わっていないうちに、また乳児は育てられないのだ。
同じ理由でそういう部族では双子はいない。

ただ、裸族の乳幼児期を現代の乳幼児が知ったら、
”うらやましいな”と思うかもしれない。
まず授乳は基本”欲しいときに欲しいだけ”与えられる。
また、泣いたり、ぐずったりするとすぐにあやしてくれる。
どれだけすぐかというと、ある部族では赤ちゃんが泣いてからあやすまでの時間は
3秒以内が88%、10秒以内が100%だったそうだ。
現代の西洋社会では”すぐあやすとわがままになる。赤ちゃんの自立を妨げる”
という教育理念がある(あった?)らしい。裸族とは正反対だ。
もちろん母親だけではなく、近くにいる人が泣く子をあやす。
だから、裸族の乳児はほとんどを周囲の人とのスキンシップに費やしている。
次に、乳離れして遊ぶようになると、食料を調達する両親に代わって、
祖父母、おじおば、年上の兄姉、部族の中の人が養育してくれる。
親以外の存在が自分を保護してくれ、食べ物を与え、
その時々でいろんな話をしてくれることは、
子供の心理発達で大切なことなのかもしれない。
一人前になるまで15年かかる動物がいて、
親が3年ごとに新しい子供を産むなら、
どうして子供の養育が親だけで済ませられるだろう。
そして、この動物こそがヒトである。
証拠というわけでもないが、学童から中学生くらいの子は
年上のお兄さんお姉さんに強く憧れ、
その言動(ファッション)をまねることはないだろうか。
それは親の世話がある程度無くても生きていけるように、
親以外の養育ありきで設定されているということではないだろうか。
だから、ちょうどこの時期から子供は親の言うことを聞かなくなってくる。

「狩りなんて、まぁ野蛮だわ」のイメージが先行すると
裸族的社会の子供たちが悪いことをしたら、
相当の体罰をくらうだろうと、想像すると思うが、
実際はそうではなく、体罰は部族によって違うらしい。
体罰が一切ない部族もあれば、「子供は痛い思いをして学習する」という部族もある。
その中でも大まかな傾向があって、部族の生業によって違うようだ。
まったくの狩猟採集部族は体罰は少なく、
牧畜など家畜も育てている部族では体罰を行う場合が多いという具合に。
”家畜のえさを忘れる”とか”柵を閉め忘れた”という、
子どもの過ちは牧畜部族には大きな被害になる。
この過ちによる被害の大小が、体罰する、しない。
の傾向が決めるのだろうと推測していた。
だとすれば、体罰は”文化的なもの”ということになる。
狩猟採集部族の子供が日本の部活動を経験したらどうなるのだろうか?
親がヤリと弓を持って乗り込んでくるような部活がまだ残っている気がするが。

裸族の社会を研究するため、その部族でともに生活をした西洋人の共通の意見では
裸族は大人だけでなく、子供までが情緒が安定し、自分に自信があり、
好奇心にあふれ、自律しているそうだ。
裸族の子供が幼いときから社会性を身につけている一方、
現代の先進国では子どもの心の病が増えている。
この違いを研究者たちは、長い間の授乳期に親を含めた人に触れること、
泣いたら誰かが反応してくれること、また体罰が理不尽ではないことで、
安心感と刺激がバランスよく、その子を成長させるのだろうと推測していた。

伝統的生活をしている裸族の子育てを紹介してみた。
彼ら裸族の生きていく自然環境は厳しい。
そこに立ち向かい、なおかつ生きることを楽しむ心をはぐくむ。
そういう育児なのだ。
しかし書いてみて、そんな遠い昔では無くて、
私の親ぐらいはこんなふうに育てられただろう、”昨日までの世界”のように思えた。
厳しさに立ち向かいつつそれを楽しむメンタルは
どんなに時代でも親が子供に望むことなのだろう。