院長ブログ

2021.04.14

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(1)

 子供のころ、日曜19時半からの「素晴らしき世界紀行」が始まると
台所から母親が「今日、裸族?」と私に聞いてきたものだった。
旅行の話あり、動物や恐竜の話などもあった中で
なぜ”裸族”にこだわったのか?

ちょっと歴史の話をしたい。
私たちは神に作られたのではなく(宗教上信じている人はいると思うが)
おおよそ600万年前にチンパンジーと別れ、今のヒトに続くよう進化してきた。
北京原人とかジャワ原人が生きていたのは200万年前で
そこから150万年たって現生人類が生まれ、火を使い、石器を作り、
ようやく1万1000年前に農耕生活が始まり定住するようになった。
このヒトへの進化を年月で例えてみよう。
チンパンジーから分かれた日を1月1日とすると、
農耕が始まったのは12月31日の朝8時ごろになる。
12月30日まで、私たちの祖先は森やサバンナを走りまわり、
動物を狩る、木の実などを採集する生活をしていた。
そんな、長い時間過ごした”裸族”的生活に、
まるで故郷を懐かしむ思いになるのは、
チンパンジーの末裔としては当然なのかもしれない。
実際、私が裸族の生活についての小話をスタッフにすると、
普段はあまり聞いてくれない若いスタッフも
ふんふんと、珍しく私の”裸族”話を聞いてくれる。
自分のルーツである”裸族”時代に興味がそそられるのだろう。
本人たちは自覚していないと思うが。。。
私が子供だった頃はまだ世界に残っていた裸族的な伝統的部族社会では
狩猟採集、農耕、牧畜を生業としていた。
ヒトが長い時間、進化し適応してきた環境に近い裸族的社会を知ることは、
現代という環境にヒトが適応できていない面があることに気づけることかもしれない。

ゴーギャン

小さい部族で30人ほど、それらが集まった部族集団では100人ほどで生活している社会では
食料を得るために守るべき土地がある。
当然ナッツが採れるような豊かな土地をめぐっては部族で争いもあるから
裸族社会では移動が制限されている。
移動が制限されれば出会う人も限られるので人との付き合いもシンプルなものとなり、
他人を分ける基準は友人・敵・見知らぬ人の3つだという。
現代では友人はお互い好意を持ったり、
共通のことに関心を抱ける同士であったりするパーソナルなものだが、
裸族的社会では友人というのは親戚関係や婚姻関係に根差した同じ部族内の人を意味する。
ダンパー数という言葉をご存じだろうか?
”その人の顔や人となりがわかり、各人がどのような関係にあるかわかり、
安定的な社会関係を維持できる人数”を言い、150とされている。
150は上限であって、現実はこれより少ない人もいると思う。
この数を提唱した人類学者ロビン・ダンパーは
ヒトを含む霊長類の群れと、脳の発達からこの数を導き出したという。
そんな難しく考えなくても、裸族的社会では友人であり得る部族が大体100人くらいなので、
その数がヒトという種にとって、おさまりが良い関係の数なのだろう。
facebookなどで友だちが何百人という人物からの友達申請を
「ん?危険かも」と思うのはもう本能だろう。
現代は街を歩けば見知らぬ人だらけだ、けれど
経済という鎖でつながれているから
見知らぬ人は未来のビジネスパートナーだったり、
客であったり、雇い主であったりする可能性を持っている。
どうやらヒトは多くの人と心を通わせられる構造にはなっていないらしい。
だから、ヒトとうまくやれないと現代人が悩むのは無理がないし、
裸族を思えば、友達が少ない、いないと悩む必要もないのかもしれない。


まだまだ裸族への興味は尽きない。
次回は子育てについて書いてみたい。