院長ブログ

2023.06.18

「いびきはかくな。ジャガーが豚と思って食べにくる」

前回のブログは「英語を話すためには英語の世界観を身体に育むことが必要だった」という内容のことを書いた(つもり)。
”釣田美奈子”ではなく、例えば”キャサリン”という別人格を作り、英語を学んでいれば私の人生は変わっていたかもしれない。さて、言葉を巡るブログも3本目になった。最後はアマゾンの少数部族の話を紹介しよう。裸族話が好きな人、お待たせしました。

アマゾンの奥地の狩猟採集部族=ピダハン族(以下、ピダハン)は極彩色のインコが鳴き、サルが木々の葉を揺らし、ジャガーの唸り声が聞こえる、アマゾン川の支流、マイシ川沿いに住んでいる。彼らの言葉には前後左右はない。
ピダハンの絶対座標は川で、右左の代わりに上流下流を使う。だから街に出たときにピダハンが最初に確認することは「川はどっちだ?」になる。
私は若いころ、静岡から富山に遊びに来た友人の旦那さんに「海が逆だから、変な感じがする」と言われ、その意味が分からず「友人も変な人と結婚したな」と思っていた。静岡では海は南だが富山では北になる。海という地理座標が強い人なので、富山でのドライブは変な感じがしたのだろう。彼がそう言った理由がピダハンを知って25年かけてわかったのだった。
こんな小さい部族の言葉を私が触れられるのは”ピダハン”という本のおかげで、著者は聖書をピダハン語に翻訳する目的で村にやってきた。ピダハン語で書かれた聖書で、彼らを回心させようという布教活動の一つだ。

(図書館で借りて読んで、結局購入した)
ピダハン語を身につけるために、著者はピダハンと生活を共にすることで彼らの家族観、自然観、文化などつまり世界観を知っていく。彼らは自分で体験したか、体験した人から直接聞いた話しか話さない。だからピダハンには”曾祖父母”という言葉がない。平均寿命45歳の彼らには曾祖父母は出会うはずがない家族だから、言葉もない。当然言い伝え、創世神話のようなものもない。これは布教活動する側にとっては致命的だ。
イエスの言葉を教えても、超実用主義の彼らから「で、お前は聞いたのか?イエスを見たことがあるのか?実際にお前が聞いた事でないなら、お前が語るイエスには興味はない」と返されるのだから。
著者は無意味な生き方をやめ、喜びと信仰に満ちた人生を教えに来たつもりだった、だがそれは布教する側の見方だ。
ピダハンのマイシ川は美しく、木々は緑深く茂っている。うまい食べ物があり、家族を養い、おおむね仲たがいもない。アマゾンのジャングルという環境で自分の始末がつけられるように育ち、それに満足している人たちを回心させるのは難しい。ピダハンからしたら”大きなお世話”なのだ。
布教活動をするには「救う前に迷わせろ」というテクニックがあるらしい。ピダハンは信じたほうが良いという理由だけで信じるような精神は持ち合わせてはいない。つまりは迷ってはいないのである。ピダハンに迷う要素がないわけではない。乳児死亡率は高く、毒蛇やケガ、マラリアなどの感染症への不安は尽きない。けれど、先進諸国に増えているうつや引きこもりパニックなどの精神疾患が彼らにはない。
二ーバーが神に祈り、宇多田ヒカルが♪ちょうだいよぉ~♪と歌った
「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」を与えられなくても持っている民族なのだ。
ピダハン語を話せるようになるにつれ、「迷える子羊は自分の方だった」と気が付いた著者は伝道師であったのに信仰をやめてしまった。
実はこの信仰をやめたという事実が、私が「ピダハン」読んでみようと思ったきっかけでもある。そうでなかったら「ありきたりの伝道の話」として手に取らなかっただろう。

さて「ピダハン」の傍題は「Don't sleep, There are Snakes(蛇がいるから寝るなよ)」で、著者が気に入っているピダハン流の「お休み」と言う意味だ。
今回のブログの題はそれに倣って、本のなかで私が一番気に入ったピダハンの言葉を選んでみた。