院長ブログ

2025.12.31

2025編集後記

義務だけで始めたブログが15年続きました。今年それに加わった31のブログを振り返ってみます。
耳鼻科関連では”聴こえないのは、耳だけのせいか?”という疑問から「音の旅」「加齢性難聴」を思いつきました。”聴こえる”ために音が巡る脳での旅と、それを維持する秘訣を書いたつもりです。
聴覚は”人と繋がるため”という意義を持っています。聴こえないことで引き起こされるコミュニケーションの低下は孤立を生み、認知症へと繋がっていきます。2024年の「認知症のリスク因子」では糖尿病や喫煙よりも難聴の認知症への影響が高いと発表されていました。死ねない、でも社会と生きられない脳には認知障害になった方が生き物としては幸せかも、という見方もありますが、そうならないように"足掻きたい"と思っています。
のどに関しては「喉頭の話」を書きました。
進化は全く新しい生物を作るのではなく、使われなくなったものを別に利用する精巧なリフォームのようなものです。魚で使われていた鰓(エラ)が私たちでは”のど”になっている!という生き物の連続性に感動した学生時代を思い出しながら書きました。

こころの地図」「道を見つける」「道を進もう」は空間認知と記憶の内容です。
ドラクエなどのロールプレイングゲームでは物語を先に進めるためには、あまたあるダンジョンを一つ一つクリアーしなければなりません。攻略ページは最短に進む、いわゆる”タイパ”の良い道は教えてくれます。キャラクターの残りの体力が少ない中、ドキドキしながらダンジョンで迷い進むことは”タイパ”は悪いかもしれません、でもダンジョンの地図は強烈に記憶します。タイパの悪い方針をとると、もう一度ダンジョンに戻った時、今度は迷わずに進むことができます。きっと矢沢なら(「矢沢論」「続・矢沢論」)なら「最初、サンザンな目に合う。二度目、オトシマエをつける。三度目、余裕」と言うでしょう。これこそがゲームをコントロールしている満足感に繋がっているのです。もし、人生もダンジョンのようなものなら道に迷い”足掻く”こともそう悪くないと思いませんか。今年の中でこの3つのブログが一番気に入ったテーマでした。

「あいみての、のちの心に くらぶれば 昔はものを 思わざりけり」(百人一首より)
私にとって本に出合うことは”あいみる”ことと同じです。「推しの死」で紹介したフランス・ドゥ・ヴァールは霊長類、とりわけ私たち人間に近い類人猿を鏡として映し出すテーマでいくつもの本を出しています。
人間の本質を生物の起源に求めた彼は、「暴力も共感も自分の行動が相手にどんな影響を及ぼすか想像の上で成り立ってる」と言います。私たちは悪徳のコインと美徳のコインの二つを持っているわけではないのです。だから悪徳のコインを無くそうとしてもそれは難しい。悪徳と美徳がコインの裏表なら表が出る確率を上げればよい、と考える方が理にかなっているのではないでしょうか。私たちホモサピエンスと他の霊長類との比較からまだまだ学べることはあるので、新しい霊長類学者を探さなくては!思うと同時に、ドゥ・ヴァールが私に与えてくれた知見に心から感謝したいと思います。
そして、”のちの心”で知りたいのは私自身です。「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」の故事があるように自分を知れば自分をたやすくコントロールでき、物事の見方をかえたり(「痛みの舞台裏」「なぜ”めまい”はあるのか」)、もっと集中出来たり「ダンスは上手く踊れない」できるでしょう。
とはいえ、今年も狙ったとことに狙った球がいかず(「診療は90%がメンタル」)、たくさん打たれてしまいました。がっくり膝をつく日にも、スタッフのチームプレイに助けられています。彼女たちがいなければ、ブログも書けなかったでしょう。
私というものにかかわり、思考を豊かにしてくれる彼女たちに患者さんたちに感謝して今年もブログを終わります。