院長ブログ
2025.12.03
静岡の夕ぐれと富山のことば
清少納言によれば冬は早朝が趣深いということだが、私は断然”夕焼け”派だ。
オレンジから濃紺へと緩やかに沈む冬の空のグラデーション―これは静岡に来てから知った。空気が澄んでいて、雲が少ない静岡の冬は夕焼けがきれいに見える条件が整っている。もし清少納言も静岡で暮らしたなら、枕草子の内容も変わっていたのではないかしら。
故郷の富山は、冬は曇りがちで晴れる日が少なく空気は湿っているので、こういう夕焼けは見られなかった。静岡と富山、とりわけ対照的なこの時期は、不思議なことに静岡の夕焼けをみながら、富山の冬も思い出してしまう。ジュディオングの♪好きな男の腕の中でも、違う男の夢を見るふううぅ~はああぁ~♪心理か。そんな夕焼けを眺めながら「もし富山で開業していたら?」と考えることがある。
倫理学の有名な問いに「トロッコ問題」がある。5人を救う代わりに1人が犠牲にするか?という命題だ。5人救うために1人を犠牲にするのを”よし”とする考えは功利主義と言われ”合理的な判断”とみなされる。
バイリンガルにトロッコ問題を出すと、第一言語=母国語より第二言語での方が合理的な判断に傾くという。言語が思考を作り感情の揺れ幅まで左右する、ということだ。宇多田ヒカルも客観的に物事を考えたいときは英語で考えるというのも同じ理由だろう。
ならば方言でも夕焼けのように思考の色が変わるのではないだろうか?
例えば、タイミーのバイトでなまはげになるとしよう。与えられたセリフが「泣くごはいねが」と「泣く子はいませんか」では、なまはげのイメージも動きも心のありようも別物にならないだろうか?もちろんバイトの充足度にも。
方言の違いで思考の違いが生まれることに気がついたのは、富山の友人が帰った後や年末年始で富山に帰った後など、方言が抜けない時の診療だった。
診療は患者の主観的な訴えを、診察結果という客観的なものに置き換える作業から始まり、それらをわかりやすく説明するという過程からなる。鬼滅の刃での、極限まで鍛錬を積んだ者が到達する境地=”透き通る世界”と言う言葉を借りるなら、柱ではなく医師としてはどれだけ思考の透明度を保てるか、つまり客観性を高く保つことが大切だと思う。富山の言葉を使うと感情が強くなり、濁りがでてしまう。
もし富山で開業していたら、全く違った病院になっていたと思う。どの言葉を使いどう伝えるかが違うのだから。静岡と富山の夕焼けの色が違うように。。。
それで思いついた!今月末に私は富山に帰る。実家でずっと静岡弁で話したら少しは親子喧嘩が減るかしら。