院長ブログ
2025.11.19
凡庸上等
ららぽーと沼津の「午前10時の映画祭」では、いつか誰かと行った名画がまた劇場で見られる。
11月20日までは「アマデウス」だ。私は好きな映画を問われたらこの映画を挙げていた時期があった。
この映画の主役はサリエリ。”誰?”という疑問はもちろんだ。私もこの映画を見るまでは知らなかった。準主役はモーツアルト。これは小学生でも知っているだろう。当時の立場はサリエリの方が上だ。皇帝のお抱え作曲家という地位で若いモーツアルトを迎える。サリエリが作った歓迎の曲を、モーツアルトは1回聞いただけで演奏し、皇帝の前で「ここが変だから直そう」と素晴らしく曲を変えてしまう。サリエリのプライドズはタズタにされる。
幼いころから敬虔に「音楽で神を讃えるから、音楽での栄誉を与えてください。それ以外は要らない」と一途に祈っていたサリエリは、いとも簡単に人を魅了する曲を作る才能、そこから生まれるモーツアルトの音楽が、祈りに対する神の答えなのだと知る。この時の気持ちをサリエリは次のように言う「神は希望だけ与えて、才能は与えなかった」
自分の才能について考えてもいなかった16歳で初めて見て、それから40年。映画のサリエリに近い、才能について考えられる年にはなった。才能はあると思えばあり、無いと思えばないもので、また他人、広く言えば社会にさらされてわかってくるものだと思う。自分にあるのに、自分には見えず他人の方がよく見えている。私には才能をも自分当てゲームのように思える。(以下、以前のブログ抜粋)
『こんなゲームを想像してみよう。いろいろな物を描いたカードを伏せて配る、みんなカードは見ないでおでこに貼る。他の人は私を見て「隣の県の名産でもあり美味しいね」とか「皮が好きだな」と彼らなりのヒントをくれる。どうやら私はブドウの様だと自分で想像して、ワインのカードをおでこに貼っている子に近づく。けれどこれは間違いで、本当は私にウナギのカードが貼られていたら、ワインと思っている子は戸惑うだろう。そして遠くでお米と思っている子が私を探しているかもしれない。自分をブドウだと思っている間、私はこのゲームで勝つことは無い。』
さて、才能あふれるモーツアルトは35歳で亡くなる。年月を重ねるごとにモーツアルトの音楽は世界にあふれる一方、サリエリの音楽は廃れていった。それを目の当たりにする日々が、サリエリの老いていく時間だった。才能から生まれた結果で比べると優劣がついてしまい辛くなるが、もしサリエリが結果を生む過程=努力にフォーカスできていたなら、それは柔軟な才能として、消すことのできない嫉妬心から彼を救ったのではないのだろうか。
映画のラストでサリエリは「凡庸の代表者」と自分を卑下する。芸術や競技の世界では凡庸は褒められた言葉ではないが、長い人生を対象にした場合、凡庸であり続けることは案外難しい。宮廷作曲家として皇帝に仕え、病院でも特別室で従者いる環境は、現代ならば高級なサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)で暮らしていると同じで、もし彼が恵まれていたことに気がつけたなら違う人生だったろうに。と思う。
”この世の凡庸なる者の一人”であることに感謝したい。