院長ブログ

2023.03.22

汝自身を知れ

一日の診療が終わったある夜、スタッフが私に面会があるという。病院の玄関まで出てみると、一組の親子が私を待っていた。面会の動機を聞けば第一志望の大学に合格したのでそのあいさつに来たという。そして一冊の本を私に返してくれた。
さかのぼること10か月前、その子を低音障害の難聴と診断した。低音障害の難聴の原因はストレスであることが多い。
難関と言われる、倍率が高い学部を志望すれば、それなりの代償を払わなければならない。目標を高く設定すればするほど、手に入れるのは簡単なものではなく、合格するまで常に勤勉さと自制心が要求される。さらに「落ちたらどうしよう」といった不安や、「こんなことやってなんになる」という自己否定にも打ち勝たなくてはならない。
受験生という状況では、自分をコントロールするのは難しいのだろう。そこで私は低音障害を改善させる薬とストレスで自分をこれ以上失わないよう”自分をコントロールする”技術がつまった本を貸したのだった。

自分を失って、自分をコントロールできないのなら、失った自分を探すしかない。
自分探しは、飼い猫を探すみたいに「自分探しています。見つけた方は連絡を」と電柱に貼っても見つからないし、ましてやよく自分探しの旅の目的地になるニューヨークやパリで見つかるとも思えない。それは自分を知ることから始まる。と思う。
ところで、自分は自分をわかっているのだろうか?
イギリスの刑務所に入っている囚人への自己評価アンケートで道徳性、思いやり、信頼、誠実、自制、寛大など、ほぼすべての項目で、囚人たちは、あるグループを上回る自己評価だったという。
あるグループとはもっと重い罪の囚人たち?いえいえ、ナント!一般人と比べてです!
唯一の例外は”法の順守”で、囚人は一般人と同じくらい法を守っている。と自分では思っているという結果だった。よく考えると頭が混乱してしまうが、”自分がわかっていない”人ほど自分の評価は高い傾向にある。
つまり自分の内面をみることだけで、自分がわかるわけではない。それだけだと”自意識”に過ぎない。自分を知るためには自分の中に”他人の目”をはぐくむことも必要になる。
こんなゲームを想像してみよう。いろいろな物を描いたカードを伏せて配る、みんなカードは見ないでおでこに貼る。他の人は私を見て「隣の県の名産でもあり美味しいね」とか「皮が好きだな」と彼らなりのヒントをくれる。
どうやら私はブドウの様だと自分で想像して、ワインのカードをおでこに貼っている子に近づく。
けれどこれは間違いで、本当は私にウナギのカードが貼られていたら、ワインと思っている子は戸惑うだろう。そして遠くでお米と思っている子が私を探しているかもしれない。
自分をブドウだと思っている間、私はこのゲームで勝つことは無い。山椒と確信している子が慰めてくれたら、自分がウナギだと気がつけるかもしれない。
書くのはやさしいが実践するのは難しい。
今回の題「汝自身を知れ」はギリシャの賢人によりアポロン神殿の入り口に刻まれ、プラトンの言葉として知られている。賢人にとても大哲学者にとっても難しかったということだ。
他人の視点を持つことが、自分を知る手掛かりになる。ということは面白くないだろうか。
望んだ大学に合格するのだろうか?と不安を感じているときは「私は不安だ」という思考と不安という感情が強固に結びつく。
そして何度も反芻して考えたり、「もうやめたい」と別のことを望みだす。
私がその子に渡した本はこの思考や感情と自分を切り離す方法が書かれていた。
「私は不安だ」と、「私が不安を感じている」と自分を別な視点で認知することは同じではない。後者を昨今は”メタ認知”といい、「21世紀を生きるための最大のスキル」とまで言われている。

二人が帰ってから気が付いたのだが、本は私が渡したものではなく新しく買いなおしたものだった。4月から一人暮らしをする部屋の本棚に私が渡した本が並んでいるのを想像してしまった。
そして6年後にはその子は職業上は私の後輩になる。
メタ認知能力を育て、鋼のメンタルを持てば、どこでもやっていけるだろう。