院長ブログ

2025.05.28

感傷的な観光案内

高岡の実家を路面電車沿いに西に向かい、2つ目の交差点を右に曲がって小矢部川(昔の名前は射水川)を超えると伏木地区に入る。
伏木は、古代には大伴家持(万葉集を編纂)が今でいう県知事として生活をしていた場所であり、現代では中学の部活のキャプテンがお嫁に行き、根をはっている場所だ。このキャプテンには散々迷惑をかけたので、この街を私はいまだに肩身が狭い思いを抱いて通る。
「もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花」(伏木で読まれた大伴家持の和歌。万葉集より)
国道415号という味気ない名称ではなく、地元の人が十軒道路と呼ぶ勾配が続く道をしばらく行き、トンネルを抜けると雨晴(あまはらし)海岸にでる。海から立山連峰という富山を代表する風景の、ここは撮影スポットだ。十軒道路から雨晴を過ぎるこの道を免許取りたてでよくドライブした。♪海沿いのカーブを君の白いクーペ~♪稲垣潤一の”夏のクラクション”が流れると今でも思い出すのはこの道だ。その影響なのだろうか、今は白いクーペに乗っている。

(雨晴と立山連峰を模したマンホールカード)
道を行きすぎたので十軒道路に戻る。この十軒道路とJR伏木駅に挟まれるように国宝の勝興寺がある。「高岡に帰るなら、マンホールカードを取ってきて」と集めている友人に頼まれ、5月に雨晴と勝興寺を訪れた。

(勝興寺とピンクの花。冒頭の家持の歌に由来して、この花はかたかごの花)

小学校では5月に写生大会があった。絵の苦手な私にとっては気が乗らない、早く終わらせて後は友達と遊ぼう、くらいの一日だった。日陰になっている校舎の裏側で、水をはった田んぼとその向こうにある民家の風景を描いていたが、下手な者の常で、下書きしてあらあら色を付けるともう飽きていた。筆を洗う水の汚さも、パレットのまとまりのなさも私のやる気を削いでいた。
ふと横の方を見ると、クラスでも絵の上手い女の子が写生していた。絵がうまい子にありがちな無口な性格で、口から生まれてきた様なおしゃべりな私とは正反対、それまでは会話したこともほとんどなかった。
朝から描いていて飽きてきたし、他に話し相手もいなかったので彼女に話しかけてみた。
「いつも思っていたけど、絵が上手いよね」
それまで話したことのない私からの思いがけない言葉に頬を赤くして彼女がはにみむ。うれしかったのか、私の絵を見てくれるという。一目見て、「釣田さん、本当はこうじゃないわ。葉は一枚一枚色が違うし、瓦も一枚一枚違うわ」とダメだしをされ、普段はおとなしい子からの強い口調に、私は気おされてしまった。その姿を見て、少し悪いと思ったのか彼女は筆をとり、民家の隅にあった松を描いてくれた。
その後の時間、私は真面目に写生に取り組んだ。松のレベルに他もあわせなくちゃと、思ったのだろう。そして想像していたより悪くない一日になった。
写生大会が終われば彼女の絵は入賞を知らせる短冊を付けて飾られ、私のはその他大勢の一つとして教室の壁に貼られていた。私の絵で、松だけ画力が違うことにだれか気がつかないかドキドキしていたが、誰にも何も言われなかった。そして彼女と私はまた話すことも無い同級生に戻っていった。
「朝床に聞けはるけし射水川 朝漕ぎしつつ歌う船人」
(私の小学校の校歌にも使われている大伴家持の和歌。万葉集より)

勝興寺には重要文化財の洛中洛外図屏風(のレプリカ)が飾られていた。京都の風情を描いた屏風の二条城を見て何気なくその隅に目をやった私は急に胸が痛くなった。そこには松が描かれていたのである。狩野派の巨匠は気を悪くするかもしれないが、二条城を民家にすれば同じ場所に描かれた松だった。それが、あの日の写生大会と主役の彼女が大人になる前に交通事故で亡くなったことを思い出させたのだった。
勝興寺に行った日、卒業した小学校に一人で行ってみた。45年前に私たちが写生した場所はそのままだったが、田んぼは住宅地に変わっていて、庭の隅に松がある民家は見つけられなかった。
静岡に帰って、こうやって今回の高岡のことを思い出しても、浮かんでくるのは田んぼと民家の景色だ。そんな強情な思い出を、故郷はそこかしこに散りばめて待っている。
そして”ありがとう”はそれが言える間に伝えたほうが良い。
大きな世話をかけた伏木で暮らすキャプテンに伝えようか。
「マンホールカードをとってこい」とこの感傷旅行を引き起こした友人にも。