院長ブログ

2023.11.08

最後通牒ゲーム

ちょっとゲームに参加してみよう。見知らぬ人と衝立を挟んで二人一組になる。それで1万円を分ける、簡単なゲームだ。
相手が1万円の分け方を提案する。あなたがその分け方を了解(イエス)すればその通りに分けられた額がもらえるが、拒否(ノー)すればお金は二人とももらえず返されてしまう、というルールだ。
うちの看護師さんに「相手が8千円と2千円で提案してきたらどうする?」と聞いたところ「ノーだよ。だって、ずるいじゃん」彼女は完璧な”ホモ・サピエンス”(賢いヒト族)だ。
完璧な経済的な合理性に基づいて行動する”ホモ・エコノミクス”(仮想の人間です)なら提案が0円でない限り、9999円と1円でも「イエス」と言うはずだ。1円でもお金がもらえることには変わりないのだから。だけどリアルなヒトの心はそんな割り切れるようにはできていない。
このゲームは”最後通牒ゲーム”といって、”ヒト”という動物の根底にある”利他性”や”公平性”について垣間見れる実験でもあるため、世界中で頻繁に行われている。予想するのは簡単で納得もすると思うが、日本やアメリカなどの先進国では40%から50%の提案で、30%以下だと拒否される傾向にある。
この公平性とはどこから来るのだろうか?道徳で教えられたから?
若いスタッフに「3千円もらえる場合どうする?」と聞いたら「ノー」だった。「ノーだったら3千円もらえないんだよ」と損を強調してみたが、困ったように「なんかね~違うんですよぉ」と答えてくれた。彼女が言葉にできないのも理由がある。
1歳の赤ちゃんでも公平なふるまいをする人形を好む。もっと祖先のサルにもこの傾向ははっきり見られる。オマキザル2匹ケージに入れ、それぞれに簡単な作業をやらせる。2匹ともにキュウリを渡している間は喜んで食べているが、片方への報酬がぶどうになったとたん、キュウリのオマキザルは怒り出す。(youtubeに実験の映像アリ)
不公平を罰する(少ない提案にノーと言う)のは、腹の底から湧いてくる怒りの情動だ。生きる力として脳に刻まれているから、言葉で表現できなかったのだろう。
ではなぜヒトは公平であろうとするのか、それは聖書に書いてあったからでも思いやりがあるからでもなく、ヒトは協力し続ける必要があるからだと思う。ついでに不公平を罰することは脳が喜ぶ。「不公平な提案してきたから、一銭ももらえなくしてやった。いい気味だ」と言うわけだ。コロナ禍でマスク警察がはびこっていた理由もわかるだろう。
最後通牒ゲームで超公平な提案をするのは、緊密な人間関係で暮らす狩猟採集民族であった。得をすることでの自分の立場が危うくなることに細心の注意を払っているのだろう。そういう部族では村八分は家族とも生存に関わることだから。
さて、私たちが暮らす社会はどうだろう。狩猟採集民に比べ複雑だが希薄な人間関係では不公平が目立つシーンは多い。働いていれば、(家庭でもか)最後通牒ゲームで不公平な提案をされたときのような気持になることはしばしばあろう。私には、それを「イエス」と言うのか、「ノー」と言うのか、迷い続けることが生きることの一部であるように思う。