院長ブログ

2023.02.19

読書について(上)

「僕には一つの夢がある。炉には火が燃え、猫や犬がおり、友だちの足音が聞こえーそして君のいる」「アン。僕は君のほかはだれもー絶対にありえなかった。僕は小学校で君が石板を僕の頭に叩きつけて割ったあの日以来、ずっと君を愛してきた」
これは「赤毛のアン」シリーズの第3作「アンの愛情」のラスト、ギルバートのプロポーズの下りで、この部分を読むたび、私は泣かずにはいられない。
それは本屋での立ち読みでも、たまに読み返すときも、そしてブログに書くためにこのシーンを書き写している今も。。。

文字を読む(読字)ことは、言葉を話すことと違って、生まれながらにできるわけではない。と書いたら驚くだろうか?このブログを読んでいる人なら小学校に上がる頃には文字を覚え、簡単な文なら読めるようになっていただろうから、無理もない。
アルプスの少女ハイジで、フランクフルトで読むことと書くことを覚えたハイジが目の見えないペーターのおばあさんに本を読む理由はなんだろう?ペーターが本を読めないからだ。
同じアルプスの少女ハイジで、今度はクララがおばあさんに本を読んで聞かせてあげるシーンがある。文字を覚えたばかりのハイジと違ってクララの朗読はきっと情感が溢れていたのだろう。
わかりやすい言葉で心がこもっていたと、おばあさんはクララにとても感謝する。
歩けなくて人に迷惑ばかりかけている。と、自分を否定してきたクララに、生まれて初めて誰かの役にたったことで、自尊心が芽生えた瞬間だ。
この健全な心へのレジリエンス(回復)こそが”クララが立った”を生んだ。と私は考えている。話はそれてしまいましたが。
本を読む(読書)ことはどういうことか?実感するのに、ヘミングウェイのとても短い物語を紹介しよう。原文は英語で和訳をつけておく。まず3回読んでみて欲しい。
For sale:Baby shoes, never worn.(売ります。ベビーシューズ、未使用)
この物語を読んで、どんな感覚が生まれただろうか?
たった6単語だけど、なぜベビーシューズが未使用なのかは推察できるだろう。
ことによると真っ白のベビーシューズを握りしめ嗚咽する母親の声が聞こえるかもしれない。
また、この夫婦の苦悩を自分のことのように感じる、その一方で無事に育っている我が子を思い、感謝の念が沸き起こるかもしれない。
このように読書する脳では視覚、聴覚、言語脳、感情部分、認知部分が総動員されている。
私が冒頭のシーンで涙するのは、アンやギルバート、そしてマリラと同期し彼らの心の中に入り込むからだろう。アンの赤毛を”ニンジン”とからかってしまってからのギルバートの後悔。池のほとりで真摯に謝ってきたギルバートを許さなかったアンの後悔。許さなかったことが罪ならば、ギルバートと他の子が話しているのを見るたびアンが感じるチクッ、とした胸の痛みという罰。クィーン学院の入学、優等での卒業をめぐる勉学上の争い。そして、生涯独身で通したマリラの元カレの子=ギルバートへの思い。。。同期した心でそれぞれの思いがアンサンブルを奏でるように迫ってくるから私は泣くのだ。

読書に親しむことで、他人へ共感や自分の考えを省みる能力が発達するという。
そういう能力を成長させることに読書以外に適しているものがあるのだろうか?
ちなみにアメリカでは21世紀に入り賃金や仕事のチャンスが伸びた職業は”社会的認知”スキルを必要とする仕事だそうだ。AIにはできない分野ということかもしれない。 
それよりも、幼いころに読んだお気に入りの1冊はその本のページをめくるたび、私を子供時代に何度も連れて行ってくれる。ドラえもんがいなくてもタイムマシーンを持っているようなものだ。
読書することは、自分の中に絶対的な安らげる泉を持つことのように思う。
今の子供たちが読書を好きになってくれたらな、と思う。