院長ブログ

2021.02.04

あやしうこそものぐるほしけれ

徒然草の序段は「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」で、

現代語では「なんとなく、一日を過ごし、硯に向かいあって心に浮かぶとりとめのないことを書いていると、妙に狂ったような気持ちになる」という意味になる。

高校生の時に徒然草に出会い、私はこの序段に非常に違和感を持った。

「つれづれ~書きつくれば」までは世を捨てた枯れた僧侶が孤独にものを書いているイメージが、「あやしうこそものぐるほしけれ」で僧侶の目がカッと見開き、目が血走って一心不乱にものを書いているイメージに一転する。こんなにも短い文で正反対の作者=兼好法師の面が見えるので違和感を持った。そうやって、心に残っていたから、ブログを書き始めたときに題を「つれづれなるままに」と選んだのかもしれない。

開業したころは新しく開業したら「ブログを書く」のが当然という風潮だった。今だったらYoutubeかもしれない。若いスタッフは「ブログなんて見ないっすよ、今はYoutube。みなチャンネルなんてどう?」と私に魅力的な話を勧めてきた。でも編集はやってくれないそうだ。

10年前、ブログは続けようとは思って始めたけど、続くとは思っていなかった。始めて数年は義務感だけで書いていたと思う。けれど診察の時に「ブログ読んでいます。楽しみにしています」とかけられる言葉が私の書く動機を育ててくれたのだと思う。最近は義務とも友人になり、むしろ書きたいとすら思うようになった。

なぜ私は書くのだろう?

私の趣味は読書で“書を読む”ともとれるし、“読んで書く”ともとれる。
私は自分が“知りたい”のだと思う。そしてそれを“伝えたい”。そのために書くのだ。

そう思ったときに、700年近く離れているけれど序段の「あやしうこそものぐるほしけれ」の言葉に触れた気がした。

今の私の年は兼好法師が徒然草を執筆していた年齢と近いのかもしれない。
残された時間はそんなに長くない。でも“知りたいこと”“伝えたいこと”は山ほどある。

まさに今、私は「あやしうこそものぐるほしけれ」の境地なのだ。