院長ブログ

2025.05.14

続・矢沢論

 『私がここに書く目的が「矢沢」に関心を持ち理解したいと思う人にとって、実際に役立つものを書くことにある以上、想像の世界よりも「矢沢」がどうしてきたかを論ずる方が断じて有益であろう』
冒頭のこの文は、ニコロ・マキアヴェッリの「君主論」からパクりました。
知らない人もいると思うのでここで「君主論」を紹介させて欲しい。
宗教の影響が濃い16世紀に”政治とは道徳を行使することであるべき”より、”国が安定するために、政治は時に道徳に反ことも必要”と書き、その独創性から古今の名著となった本である。マキアヴェッリは知らなくても次の一文なら聞いた事はあるかもしれない。「結果さえよければ、手段は常に正当化される」

(マキアヴェッリが務めた場所=フィレンツェ市庁をウフィツィ美術館の屋上から撮影)

矢沢のYOKOHAMA二十才頃は何もわからず、印税収入をめぐる不平等な契約にサインしていた。その条件に異議を唱えても変わるわけではない。契約だから。また”ミュージシャンは金にうるさいことことを言うべきではない”というイメージが矢沢に襲いかかる。契約と常識という鎖にがんじがらめになりそうになる矢沢。
「冗談じゃない」と鎖を引きちぎるにはどうすればよいのか?自分に有利な契約に変えるためには売れるしかない。売れる核になるのは”曲”。そしてステージで魅せ、ファンに選ばれて売れて、つまりは”力”となる。
君主論では獅子(ライオン)のように力で敵を追い散らかし、狐(キツネ)であることで罠から身を守る両方の資質が君主には必要。とある。矢沢は獅子奮迅に曲、ステージをこなし力を得た。そして罠をかわして納得する契約を勝ち取っていった。矢沢は獅子と狐が共存する君主になったのだ。もっとも、この過程を矢沢の言葉では「最初、サンザンな目に合う。二度目、オトシマエをつける。三度目、余裕」と簡潔だが。まぁつまりは、BIGになれば、手段はすべて正当化されるということだ。
次に君主は愛されるのと怖れられるのと、どちらが望ましいのだろうか?を考えてみよう。これにはキャロル解散のエピソードを挙げてみたい。
解散コンサートをやりたい矢沢とやる気のない他のメンバー。何とか妥協点を見つけてコンサートができる運びになった時に矢沢は他のメンバーに感謝し頭を下げる。頭を下げながら「こいつら許さない」と心に刻む。
矢沢は怖れられていると思う。いや、怖れ愛されているというべきか?怖れとは恐怖という単純なものではない。「許さないとしたら、スーパースターになることだ」と自分に課し、それを実行していく、そんな矢沢に畏怖の念をファンは抱いているのだと思う。少なくとも私はそうだ。
君主論でも「君主は怖れられるほうがよい」とある。その理由は、人間の理想を語らず現実を語ったマキアヴェッリの真骨頂の言葉で書こう。「人というものは怖れている者よりも愛している者の方を容赦なく傷つけるから」。メンバーも愛していたキャロルは解散した。再結成は無い。
矢沢を読んでいると君主論が浮かび、君主論を読むと矢沢が浮かぶ。
書くまでもない、矢沢は君主なのだ。”成りあがり”の”成りあがり”による”成りあがり”のための帝国の君主なのだ。その帝国は、オムツをつけていた赤ん坊から「自分で自分のケツ拭いている」までになれた者たちの心に存在する。君主無き世界の到来にうろたえ、私も友人もその帝国の一員であることを気づかされたのだった。
さて、矢沢はこの秋に東京ドームでコンサートを行う。新しいアルバムも出るらしい。それより、新しい本が出ないかな。タイトルは”YES MY LIFE”でどうだろう。ああ、妄想が止まらない。
最後に、今回はブログを早くあげたので、少し休むからそこんとこヨロシク!